聖 書 コリントの信徒への手紙一4:18-21
わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。
しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。
神の国は言葉ではなく力にあるのですから。
あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。
パウロは「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」と挑戦的に記しています。コリント教会の信徒たちは人間的な知恵や雄弁さを重んじる傾向がありました。ですから、コリント教会の「高ぶっている人たち」はキリスト教とは何か、キリストの救いとは何かということを雄弁に論じることができたことでしょう。しかし、現実に神の力とキリストの命は彼らの生活の中に現れていたでしょうか。苦難の中でキリストの命によって生かされ、神の力・聖霊の力によって清められた生活をしていたでしょうか。この後続く5章以下の内容を読むと、決してそうではなかったことが分かります。すなわち、彼らの生活には不道徳や争いがあったのです。彼らはキリスト教とは何かということを雄弁に論じることはできたかもしれませんが、彼らの実際の生活に神の力が現れているとは言えない状態であったのです。
「力を見せてもらおう」と言うと、病人を癒すような奇跡を起こす力があるかどうかを見せてもらおう、と言っているように聞こえるかもしれません。しかし、パウロはこの手紙の初めに「十字架につけられたキリスト」の福音の力を教えています(一コリント1:18-25)。ですから、これは特別な奇跡というよりも、彼らの信仰生活にキリストの福音の救いの力が現れているかどうかを見せてもらおうと言っているのでしょう。20節の「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」というのは、キリストの福音の本質は単なる口先だけの言葉ではなく、福音の御言を通して働く神の力・聖霊の力にあるのだ、という意味でしょう。福音が口先だけの言葉に終わってしまい、実際に人を捕らえ、慰め、励まし、清め、変えていく力がなくなっているのであれば、それはむなしいものです。宗教改革者のカルヴァンも「福音というものは舌の教えではなく、生そのものの教えだ」と述べています。パウロは、高ぶっている人たちの生活に福音の力が現れているかどうかを見せてもらおうと言って、彼らに厳しく問いかけているのであります。 (2月25日の説教より)
関連で、以下の聖句も紹介されました。
ヘブライ人への手紙(12章 11節)
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。