コリントの信徒への手紙一1:6-7
こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
パウロが「賜物」という言葉を用いるときには、キリストの救いそのものを指す場合と(ローマ5:15、6:23)、キリストの体である教会を形づくるために聖霊によって一人一人に与えられている異なった働きを指す場合とがあります(一コリント12:4-11、27-31)。この7節の「賜物」はどちらを指しているのでしょうか。パウロは5節で「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」と記して、コリント教会の言葉や知識の豊かさを認めています。そして、7節で「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」と記しているのです。そうすると、この「賜物」とは、言葉や知識の豊かさに対応する具体的な賜物を指しているのでしょう。事実、コリント教会には様々な賜物を与えられた人々がおり、賜物の欠けはなかったのです。ただし、賜物の間のバランスという点では問題がありました。たとえば、普通の人には理解できない異言を語ることが、あまりにも重んじられていたようです。そこで、パウロはどのような賜物を重んじていくべきかという問題を12-14章で論じて、預言の賜物を求めていくようにと勧めています。
聖霊の賜物は教会の形成のために必要なものですから、教会の中だけのことだと考えられがちです。しかし、はたしてそうでしょうか。そうではないと思います。たとえば、ある人がキリストの福音を力強く語ることのできる預言の賜物を与えられていれば、その人は毎日の生活の中でも何らかの仕方でキリストの福音を力強く証しすることができるでしょう。あるいは、ある人が教会で貧しい人や病気の人を助ける賜物を与えられていれば、その人は日常生活の中でも何らかの仕方で周囲の困っている人々を助ける奉仕ができるでしょう。また、ある人が教会という様々な異なった人々が集まる組織を管理する賜物を与えられていれば、そのまま同じ仕方ではないとしても、何らかの仕方でそれを社会生活に生かすことができるでしょう。教会生活で豊かな賜物を受けることは、日常生活や社会生活においても、その人でなければできないような働きをなしていくことにつながっていくのです。 (7月2日の説教より)