ルカによる福音書11:37-44
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 (ルカ11:42)
旧約聖書のレビ記27章30節には「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」と定められています。そこで、小麦粉やぶどう酒やオリーブ油などの主な産物は、その収穫の十分の一が神様に献げられることになっていました。 ところが、各種の香草や野菜については必ずしも十分の一を献げる必要はありませんでした。そのころのユダヤ人の文献を研究した研究者によりますと、薄荷すなわちミントについては「献げなさい」とも「献げなくてよい」とも記されていなかったそうです。また、次の芸香という植物は、薄荷ほど私たちになじみがありませんが、別名ヘンルーダと呼ばれる香草です。強い香りがあり、興奮剤として用いられたそうです。ところが、この香草は十分の一を献げなくてよいという規定が、ユダヤ人の文献の中にあるそうです。また「あらゆる野菜」という中には、規則上は献げなくてよいものも含まれていたのでしょう。したがって、ここでキリストは、ファリサイ派の人々が規則上は十分の一を献げなくてもよい品までも献げて、自分たちが神様を畏れ敬う敬虔な者であることをひけらかしていることを指摘しておられるのです。そして、一方で自分たちの敬虔さを誇示しながら、他方では正義と神様の愛をおろそかにしている、彼らの歪んだあり方を指摘なさったのでした。
一方では人に認めてもらうために敬虔な振る舞いをしながら、他方で人の見ていないところでは、正義も愛もお構いなしに行動しているのではないか?ということはすべての時代の人々に問われています。紀元前の8世紀のイザヤとほぼ同じ時代の預言者であるミカという人は、エルサレムの人々の不正を厳しく指摘した後に、次のように勧告をしました。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」現代に生きる私たちもまた、表面では善良な一市民としての顔を取り繕いながら、実際には正義と愛を無視した行いを重ねているということはないでしょうか?キリストのファリサイ派の人々への告発の言葉は、現代に生きる私たちへの問いかけでもあるのです。
(8月3日の説教より)