ルカによる福音書11:33-36
ここで「澄んでいる」と翻訳されているギリシア語のアプルースという言葉の元々の意味は、新約聖書ギリシア語辞典によれば「一つの一貫した目的に動機づけられ、公明正大であること」です。わかりやすく言い換えれば「単純な」という意味です。そこで、信仰の目が澄んでいるとは、信仰が単純であるということを意味しています。つまり、単純な信仰ほど、その人の人格を照らすことができるということです。普通「単純」というのは、あまり善い意味で用いられる言葉ではありません。たとえば、「あの人は、単純な人だ」と言うと、ほめているというよりはけなしていることになります。そして、しばしば信仰についても、「単純な信仰」というのは程度の低いもので、 哲学的で普通の人には何を言っているかわからないような信仰のほうがより高度なものであるかのように思われがちです。しかし、キリストは単純な信仰すなわち澄んだ信仰は人格を明るくし、単純でない信仰すなわち濁った信仰は人格を暗くするとおっしゃっているのであります。
それでは、単純な信仰とはどのような信仰でしょうか?それは、ひとすじにキリストに信頼する信仰のことです。キリストともう一つ何か別のものに二股をかけない信仰です。人はしばしばキリストを信じるだけでは生きていけないと考えて、キリスト以外のものにも二股をかけて信じようとします。キリストと人間の知恵、キリストと人間の富、キリストとこの世の地位、キリストと自分のプライドなどです。ところが、そういう信仰は濁った信仰であるので、信じている人自身の人格を明るくしません。言い換えますと、二股をかける信仰ではキリストの恵みを十分に受け取ることができないということです。
実際、私たちは信仰が深まるにつれて、罪を赦されて永遠の命を受けるというキリストの恵みは、ほかの何事かと取り替えたり、他の何事かと並べたりできるようなものではない、ということを知らされるのではないでしょうか。讃美歌21の522番の「キリストにはかえられません」という讃美歌をご存知の方もいらっしゃるでしょう。「キリストにはかえられません、世の宝もまた富も、有名なひとになることも、このおかたがわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」この歌詞に表れておりますように、キリストの恵みは、キリストの十字架の死という尊い犠牲によって勝ち取られた高価な恵みなのです。それゆえに、「キリストにはかえられません」という澄んだ信仰をもって初めて十分にキリストの恵みを受け取ることができるのです。 (7月27日の説教より)