ルカによる福音書11:27-28
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 (ルカ11:27-28)
キリストがおっしゃった「神の言葉を聞き、それを守る人」とは、どのような人のことでしょうか?「守る」と翻訳されているフュラッソーというギリシャ語の動詞は、神の律法を「守る」と言うときに用いられる言葉です。(マタイ19:20、ルカ18:21、ローマ2:26)。しかし、キリストがファリサイ派や律法学者のように文字どおりに神の律法を守るという意味で「神の言葉を守る人」が幸いであるとおっしゃったとすれば、それはファリサイ派や律法学者に反対されたキリストの教えそのものと矛盾することになります。ですから、ファリサイ派や律法学者のような意味で言っておられるはずはありません。したがって、「神の言葉を守る」とは、文字どおりに神の律法を守るという意味ではなく、神様に人格的に信頼して従うという意味なのでしょう。
キリストはヨハネによる福音書の12章47節と48節で次のように語っておられます。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」
したがって、このヨハネによる福音書の御言葉からも「神の言葉を聞き、それを守る」とは、命令を受けた奴隷のように文字どおり神の言葉を守ることではなく、 「神の言葉を聞いて信じて従う」という自発的に神様に従うことであるのがわかります。この自発的に従うことは、私たちが神の言葉を聞くときに、聖霊が私たちの心に働いてくださることによって起こります。このことを宗教改革者のカルヴァンは、聖霊が「我々の貪りの悪を絶えず溶かしまた焼き尽くして、心に神への愛と敬虔の精進を燃え上がらせる」(『キリスト教綱要』3篇1章3)と教えています。このように考えていきますと、「神の言葉を聞き、それを守る」とは、「神の言葉を聞いて信じ、聖霊に満たされて、神を愛して神に従う」ということだと言えるでしょう。
(7月13日の説教より)