エフェソの信徒への手紙4:1-3

そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。           (エフェソ4:1-2)

 

神様の招きに「ふさわしく歩む」とはどのような生き方をすることなのでしょうか?そのことが2節の前半で「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」と教えられています。「一切高ぶることなく」と言われても、だれでも時には高ぶった気持ちになることがあるのではないでしょうか。ほかの人からほめられたときや、ほかの人のできないことをしたときには、「どうだ!」という気持ちになることがあるのではないでしょうか。しかし、そのようなときには、私たちの代わりに十字架についてくださったキリストのことを思い出したいものです。神の子であり罪のない方であったキリストが、罪人である私たちの代わりに十字架について苦しんでくださったというへりくだりのことを思えば、私たちが何かをしたからと言って高ぶるのは、まったく見当違いであることがわかります。キリストの十字架のへりくだりがなければ、私たちは救われませんでした。救われなければ、善い行いをすることもできませんでした。そのことを思えば、何か善い行いをしたとしても、自分が偉い者であるかのように高ぶるのは間違いであることがわかります。

また、パウロは「柔和で、寛容の心を持ちなさい」と勧めています。「柔和」な心や「寛容の心」は、聖霊の働きによって与えられます。ガラテヤの信徒への手紙の5章22節と23節を学んだときに、聖霊が私たちに与えてくださる賜物として「柔和」や「寛容」があったことを覚えておられる方もおられるでしょう。「柔和」や「寛容」は、私たちが自分自身に「柔和であれ!」「寛容であれ!」と言って聞かすことによって身につけることができるものではありません。私たちが十字架につけられたキリストによって救われたことを思い、聖霊の導きを祈り求めて生きるときに、私たちを超えた聖霊の力によって与えられるものです。どなたでも自分の「柔和」や「寛容」を試されるようなつらい経験をすることがあるでしょう。そのようなときには、聖霊なる神様が自分の心の中に満ちてくださるように祈りましょう。そうすると、キリストが聖霊によって私たちの心を導き、「柔和」や「寛容」をもつことができるようにしてくださいます。        (5月18日の説教より)