エフェソの信徒への手紙3:18-21
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 (エフェソ3:20-21)
パウロは神の栄光をたたえる「頌栄」の祈りを記しています。「頌栄」とは神様の栄光をほめたたえるという意味です。(中略)この「頌栄」の祈りは、3章15節から19節までのエフェソの信徒たちのためのとりなしの祈りを締めくくっています。そして、それだけでなくこの手紙の1章から3章のパウロの教えを締めくくるものであると言ってよいでしょう。1章から3章まで、パウロは父なる神様の秘められた計画について、神の子キリストの救いのわざについて、教会に満ちてくださる聖霊の働きについて教えてきました。そして、それらの教えに基づいて、4章からはエフェソの信徒たちにクリスチャンとしてどのように生活するべきかを教えています。つまり、3章20節と21節はこの手紙の前半の部分を締めくくる「頌栄」の祈りなのです。
「わたしたちの内に働く御力」とは、父なる神の霊でありキリストの霊である聖霊の力のことです。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」とは、父なる神様に私たちが祈ることをはるかに超えて実現してくださる力があることを表しています。日曜日の礼拝とともに、信仰の生活において大切なのは日ごとの祈りです。そして、日ごとの祈りを続けていると、自分は神様に願ったけれども実現しなかったという経験をすることがあります。それは自分の願いが神様の御心に沿っていなかったということでしょう。しかし、それだけでなく、自分が神様に願った以上のことが実現したという経験をすることもあります。そのような経験は、しばしば自分の願いが実現することによって、喜びとともに苦しみをも担うことになる場合に起こります。しかも、苦しみを担って終わりではなく、その苦しみがさらに神様の力によって恵みになるという二重の喜びをもたらす場合があります。そのような経験をすると、神様は「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」であることがわかります。 (5月11日の説教より)