エフェソの信徒への手紙2:19-22
そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。(エフェソ2:20-21)
考えてみますと、建物が成長するというのは不思議な表現です。キリスト教会という共同体にはイエス・キリストの永遠の命が宿っていますから、それを建物にたとえれば、その建物が成長するということになるのでしょう。しかし、「成長する」という表現は、本来はキリスト教会という共同体を「体」にたとえるときに最もよくあてはまる表現です。パウロはこのエフェソの信徒への手紙4章12節から15節で教会を「キリストの体」と呼んで、次のように記しています。「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」
13節の終わりには「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」とあります。その前には「キリストの体を造り上げてゆき」とか「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり」とありますので、パウロは教会という共同体が「成長する」ことを考えているのでしょう。そして、15節の終わりには「頭であるキリストに向かって成長していきます」とあります。その前の14節には「わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり」とありますので、パウロは教会という共同体が「成長する」ことだけでなく、共同体を形成する信仰者個人の人格が「成長する」ことをも考えているのでしょう。つまり、教会という共同体の成長と信仰者個人の人格の成長は切り離しがたく結びついているということです。言い換えれば、教会という共同体を形成するための奉仕は、共同体のメンバーである信仰者個人の人格をも形成するということです。教会という共同体を形成するためには並外れた忍耐が求められます。ですから、教会という共同体を形成するための奉仕をすることによって、並外れた忍耐力が養われるのです。そして、その忍耐力の源はイエス・キリストが十字架の苦しみにおいて私たちの救いのために示してくださった愛と忍耐なのです。
(3月16日の説教より)