エフェソの信徒への手紙2:8-10

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。   (エフェソ2:10)

 

「わたしたちは神に造られたものであり」というのは、単に生き物として命を与えられたという意味ではありません。その後に「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」とありますように、キリストを信じて善い業をするように前もって準備して造られた存在であるということです。2018年に日本聖書協会から出版された聖書協会共同訳の聖書では、この箇所は「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです」と翻訳されています。この翻訳の方が、意味がよく伝わります。キリストを信じる人は善い行いをするように前もって準備して造られた「神の作品」なのです。英語の聖書でも、この箇所は「神の作品」(ESV: his workmanship)と翻訳されたり、「神の手作り品」(REB, NIV 2011: God’s handiwork)と翻訳されたりしています。

手作りで手芸品などを作る方は、作る前に前もってどのような作品にするかを考えて準備してから制作することでしょう。それと同じように、神様はキリストを信じる人がどのような善い行いをする人になるかを前もって考えて準備してから、その人を「神の作品」としてお造りになるのです。その準備はいつからなされているのでしょうか?この手紙の1章4節には「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とあります。神様が「天地創造の前に」キリストを信じる人を「聖なる者、汚れのない者にしようと」して選んでおられるのですから、神様がキリストを信じる人を「神の作品」としてお造りになる準備も「天地創造の前」からなされていたということになります。このように考えますと、神様は「天地創造の前」からキリストを信じる人を選んで、「神の作品」とする準備をし、私たちに人生のある時点でキリストを信じる信仰を与えて、行いによらず信仰によって救ってくださり、さらに救われた人が善い行いをするように「神の作品」として造り上げてくださるということです。

(2月23日の説教より)