テサロニケの信徒への手紙二3:16-18

どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。          (二テサロニケ3:16)

 

「平和の主」とは、イエス・キリストのことであります。そして、「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように」と「平和」という言葉が一つの文の中に二度も出てきますのは、パウロがテサロニケ教会の平和を強く願っていたことを表しています。テサロニケの教会にはいくつかの問題がありました。そして、パウロはそれらを解決するために、手紙の中でいろいろな勧告や命令を記しています。しかし、最終的に問題を解決してくださるのは、人間ではなく平和の主であるキリストご自身だということです。教会のかしらであり全世界の主である平和の主キリストご自身が、様々な問題を解決して平和を与えてくださると、パウロは確信していたのです。

私たちの信仰生活には、乗り越えなければならない大きな危機が来ることがあります。愛する人の死や自分自身の病気や人間関係のつまずきや経済状態の危機などの試練です。しかし、それに勝るとも劣らない信仰生活の試練は、自分の所属する教会で混乱が起きた場合です。どうして教会にこのようなことがあるのか?と思うような事態が発生した時です。そして、長い信仰生活の中では、少なくとも一度くらいはそのような経験をするのではないでしょうか。

本日は、説教の最初に学校におけるいじめの話をいたしました。たとえば、もしそれと似たようなことが教会の中で起こったとすれば、皆様はどう思われるでしょうか?きっと「教会の中でそんなことがあるなんて許せない!」と思われることでしょう。もちろん、学校とまったく同じことが起こることはないでしょう。しかし、教会も人間の集まりですから、「なくて七くせ」ということわざのとおり、様々なくせのある人々がいたとしても不思議ではありません。また、そもそも教会はキリストの恵みによって罪赦された人々の集まりです。聖霊によって清められつつあるとは言え、教会に集う一人ひとりの心には罪が根強く残っています。そうすると、それぞれのもっているくせや罪がからみ合って、思いがけないところで人間関係の歪みや衝突が発生することがあります。そして、思いがけず教会の暗い面を見ることがあるかもしれません。しかし、もしそのような経験をなさったとしても、「キリスト教会は偽善者の集まりだ」などと軽々しく決めつけてはなりません。なぜならば、平和の主であるキリストが教会のかしらとして、教会を治めておられるからです。 (1月19日の説教より)