テサロニケの信徒への手紙二3:6-9
怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい(二テサロニケ3:6)
「避けなさい」という強い命令の目的は、第一に、他の信徒たちが怠惰な信徒たちの悪い影響を受けないようにということでしょう。誤った信仰や生活の仕方が、信仰共同体の中で正当化されて認められますと、驚くほど周囲の人々に影響を与えます。つまり、クリスチャンであってもあのようなことをしてもよいのだという気持ちが伝染して、教会全体が神様の教えにそむくようなことにもなりかねないのです。コリントの教会では、性的にみだらな行いを平気で行っている信徒がいて、しかもその行いが教会で黙認されているような状態がありました。そこで、パウロはコリントの信徒への手紙一の5章6節と7節で、コリント教会の信徒たちに対して、酵母が発酵を促してパンの練り粉を膨らませるというたとえを用いながら、「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と強い調子で命じました。そして、それに続く5章11節で「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」というように非常に具体的な命令を与えています。このように、信仰共同体としての教会の秩序と清潔さを守るために、パウロは誤った考えや行いをしている信徒を避けるようにと命じているのであります。
「避けなさい」ということの第二の目的は、怠惰な人々を悔い改めに導くためということです。パウロは、テサロニケの信徒への第二の手紙の3章14節と15節で「もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」と記しています。ここに表されている考え方は、教会の中で教えに従わない信徒がいたとしても、いきなり敵とみなして除名するのではなく、共同体の一員であることを認めながら交わりから遠ざけて、罪に気づかせ悔い改めを促すという考え方です。パウロは、テサロニケ教会の怠惰な信徒たちも、悔い改めて正常な生活をするようになることを願っていました。そのためには、彼らが自分たちの犯している過ちに気づいて、悔い改めるための機会を与えられなければなりませんでした。そのような悔い改めの機会を与えるために、怠惰な信徒たちをそのままにはしておかないで、怠惰な信徒たちが自分たちの何が間違っているのかを考えるように、彼らを交わりから遠ざけて「かかわりを持たないようにしなさい」と、ほかの信徒たちに命じているのであります。
(12月29日の説教より)