ガラテヤの信徒への手紙6:1-2

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。 (ガラテヤ6:1)

 

この勧めの言葉には、パウロの深い配慮が何重にも込められています。第一に、パウロは、罪を犯している人がいたとしても「悪いやつだ」と決めつけるのではなく、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」と冷静に見ています。「不注意にも〜に陥る」と翻訳されているギリシア語の動詞は、英語の聖書ではしばしば“is caught”(捕えられている)と翻訳されています。つまり、悪魔の誘惑によって罪に捕えられているというニュアンスです。クリスチャンは聖霊の導きによって生きるべきですが、時には油断をしてしまって悪魔の誘惑に負けて罪に捕えられてしまうこともあるということです。

第二に、パウロはガラテヤ地方の諸教会の信徒たちを、聖霊に導かれて生きている人たちとみなして励ましています。「“霊”に導かれて生きているあなたがた」という言い方の「あなたがた」は、パウロの教えに忠実なごく一部の信徒たちだけを指すのではなく、ガラテヤ地方の諸教会の信徒たち全体を指しているのでしょう。なぜなら、この手紙は信徒たち全体の前で朗読されたに違いないからです。すると、パウロは互いに争っているような信徒たちをも、聖霊に導かれて生きることを始めている人たちとみなして励ましているのです。

第三に「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」という勧めの言葉には、罪に陥った人を攻撃して排除するのではなく、クリスチャンとして立ち直らせるようにしなさいというパウロの愛の心が込められています。そして、それができるのは人間的な思いからではなく、聖霊に導かれて相手に接するときです。5章23節には聖霊の実りとして「柔和」という心が挙げられています。聖霊によって与えられた「柔和な心で」罪に陥った人と接するのです。これは決して簡単なことではありません。罪に陥った人は、こちらが「柔和な心で」接そうとしても往々にして敵意をもって応答してくるからです。

そこで、パウロはさらにもう一つの大切なことを教えています。それが1節の終わりの「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」ということです。これは言い換えますと、「あなた自身も悪魔に誘惑されて敵意や争いの思いをもつことのないように、自分に気をつけなさい」ということです。聖霊によって与えられた「柔和な心」ではなく、人間的な思いで相手に接していると、相手が敵意をもって応答してきたときに、自分も敵意をもって相手に応答してしまいます。それこそが悪魔の誘惑です。その誘惑に乗らないように気をつけなさい、とパウロは警告しているのです。 (9月22日の説教より)