テサロニケの信徒への手紙二1:11-12
それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
(二テサロニケ1:11-12)
「わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって」という言葉は、救いの完成が人間の功績によるものではなく、神様とキリストの恵みによるのだという真理を改めて教えています。そして、神様の究極的な目的が、第一に「わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ」るようになるためであり、第二に「あなたがたも主によって誉れを受けるようになるため」だ、とパウロは述べています。この二つのうちの「主イエスの名があがめられる」という目的は、すでに10節でも述べられていました。すなわち、10節には「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです」と記されています。キリストの再臨と最後の審判の目的は、何よりも父なる神様とキリストご自身の栄光があがめられるためであるということが、10節でも教えられていました。そして、パウロはそこでは信徒たちが栄光を受けるということをあえて記していません。すなわち、信徒たちが自分に栄光を帰して、キリストの最後の審判を自分たちの栄光のために利用することのないように、神様とキリストの栄光がほめたたえられることを、パウロは記していたのでした。
ところが、12節の終わりには「あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」と、信徒自身も栄光を受けることが、控えめな形ではありますが、はっきりと記されているのです。 このことをどのように理解すべきでしょうか?信徒自身が栄光受けることはあまり重要ではないので、この部分の終わりに少しだけ書いたということなのでしょうか?そうではないと思います。キリストを信じる信徒が終わりの日に栄光を受け、永遠の命を与えられるということは、キリスト教信仰の中核とも言えるべき重要な事柄です。そして、その重要な事柄を、パウロはあえて控えめな形で記したところに、パウロの深い意図を読み取ることができると思います。すなわち、神様が救いを完成してくださるのは、まず第一に神様とキリストの栄光のためであるが、それは同時にキリストを信じた者たちが栄光受けるということでもある、という考え方です。パウロは、キリストの栄光を第一に考えつつ、そのキリストの栄光にあずかるという仕方で、クリスチャンも栄光を受けるという謙遜な確信を述べているのです。このキリストの栄光とそれにあずかる信徒たちの栄光という救いの完成のときを目指して、救いの歴史は新約聖書の時代も、そして今も一日一日と前進しているのであります。 (12月18日の説教より)