テサロニケの信徒への手紙二1:1-2

霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。                (二テサロニケ2:2)

この言葉が示唆するところによれば、テサロニケの教会の中には、 終わりの日を待ち望む熱心のあまり、「主の日」と呼ばれる終わりの日が現在すでに来てしまっているかのように誤解している信徒たちがいたということです。おそらく、個人的な熱心や特別な幻の体験によって信仰がゆがんでしまい、すでにキリストは再臨して終わりの日が始まっていると考えるようになったのでしょう。パウロはこのような誤解をしている信徒たちに惑わされないようにと、2章3節の前半で「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません」と厳しく戒めています。そして、2章3節の後半で「なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです」とその理由を説明しています。「不法の者」が出現して権力を振るうことが終わりの日の始まりのしるしだということです。マルコによる福音書の13章14節で、キリストもまた、終わりの日の前には様々な苦難があり「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことが起こると教えておられます。

テサロニケ教会において、終わりの日を待ち望む信仰から生じたもう一つのゆがみは、世の終わりが近いのだからこの世の仕事をしなくてもよいと考えるような信徒たちが出てきたことでした。このような信徒たちは仕事をしないで他の信徒たちの支援によって生活していましたが、これは正しい生活の仕方ではありませんでした。 テサロニケ教会の信徒たちの一部にこのような傾向を持った人々がいることは、すでに第一の手紙でも示唆されていました。すなわち、第一の手紙の4章11節には「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」という勧告が記されていました。ところが、そのようなパウロの勧告にもかかわらず、働こうとしない人々の怠慢ぶりは改善されるどころか、ますます目に余るものとなっていったようです。この第二の手紙においてパウロは、より厳しい言葉を用いて、これらの働こうとしない人々に警告をしています。すなわち、第二の手紙の3章11節と12節には次のように記されています。「ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」これを読むと、パウロは以前よりもはっきりと働こうとしない信徒たちの過ちを指摘し、それを正そうとしていることがわかります。      (11月20日の説教より)