コリントの信徒への手紙二11:7-11
それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。 (二コリント11:7)
「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせた」というのは、パウロがコリントでどのようにして伝道したかを表す言葉です。その具体的な様子は使徒言行録の18章1節から5節に記されています。その箇所を読むと、パウロがコリントでの伝道を始めたときに、コリントにはキリスト教会がなく、クリスチャンもアキラとプリスキラの夫婦以外にはいなかったらしい、ということがわかります。ですから、教会から報酬を受けるということももちろんありませんでした。そして、伝道するパウロのもとに人々が集うようになった後も、パウロは集まった人々から謝礼を受け取らずに説教をしてキリストの福音を宣べ伝えました。その理由は、キリストの福音を宣べ伝えるのは謝礼を得るためである、という誤解を招かないためであったと考えられます(一コリント9:12)。
このような伝道の仕方は「あなたがたを高めるため、自分を低くして」したものだとパウロは述べています。「自分を低くする」とはパウロがテント造りの仕事をして生活費をかせいだことを指しているのでしょう。この当時のユダヤ教の教師は、律法を研究して教えるとともに自分が生計を立てる手段を身につけていました。また、「あなたがたを高めるため」というのは、偶像を礼拝する空しい生活を送っていた人々を、キリストを信じることによってまことの神の子として生きることができるようにするため、という意味なのでしょう。それにしても、「わたしは罪を犯したことになるでしょうか」という問いかけはおもしろい言い方です。もちろん、これは「罪を犯したことにはなりません」という答えを導き出すための問いかけです。キリストは72人の弟子たちを伝道のために派遣するにあたって、伝道をして「働く者が報酬を受けるのは当然」(ルカ10:7)とおっしゃいました。しかし、当然受けるべき報酬を受け取らなかったからと言って、罪を犯したことにはならないでしょう。「わたしは罪を犯したことになるでしょうか」という言葉使いには、報酬を受け取らなかったパウロを、報酬を受け取る資格のない二流の伝道者とみなしていたコリント教会の信徒たちに対して、パウロがユーモアと皮肉を込めて問いかけをしていたことがうかがえます。
(9月18日の説教より)