イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 (ルカ8:50)
この会堂長には12歳の一人娘がおりました。しかし、その一人娘は病のために死にかけていました。会堂長はキリストの恵みによって娘が助かると信じて、キリストに家に来てくださるようにと、ひれ伏して願いました。そこで、キリストは会堂長の家へと向かっていたのですが、キリストが到着する前に娘は死んでしまいました。すなわち、キリストが12年間子宮からの出血の病で苦しんでいた女性と対話しているときに、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」という連絡が入ったのです。この連絡を聞いたときの会堂長のショックはどれほど大きなものであったことでしょうか。ところが、会堂長が娘の死という出来事を心の中に受け入れるのを押しとどめるかのように、キリストは「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とお語りになったのであります。すなわち、キリストの恵みの前では、すでに死んだ者であっても救われるということを明言なさったのでした。
人間の目から見るならば、死にかかっていることとすでに死んでしまったことには雲泥の差があります。人間にとっては「お嬢さんは、亡くなりました」という事実は、一切の回復の希望を打ち砕く決定的な事実であります。ところが、キリストにとっては、「お嬢さんは、亡くなりました」というのは決定的な事実ではありませんでした。すでにキリストがその娘のところに向かっておられる以上、死にかかっている状態であっても、すでに死んだ状態であっても、その娘は救われると言うのです。神の子キリストには不可能は無いからであります。しかし、すでに死んだと言われている娘が救われることを信じるのは、決して容易なことではありません。それは、病気が癒されることを信じるよりもさらに困難なことです。この世の常識では全く不可能なことを信じなさい、ということになるからです。
ところが、この世の常識では全く不可能なことを信じるというのが、キリスト教の信仰の本質なのであります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙4章17節において、歳をとったアブラハムとサラの夫婦に息子が生まれたという旧約聖書の物語を取り上げて、アブラハムが「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を」信じたと述べました。また、それに続く18節で、アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて」信じたということが記されています。 また、ヘブライ人の手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。 (9月11日の説教より)