ルカによる福音書8:16-18

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」        (ルカ8:16)

キリストの御言葉を聞いた人は「ともし火」を自分の家の中にいただいた人のようなものであります。「ともし火」をいただいた人は、それを器で覆い隠したり寝台の下に置いたりして、無駄にすることはしません。家の中に入ってくる人を明るく照らすように、燭台の上に置きます。それと同じように、キリストの御言葉を正しく聞いた人は、それを自分の心の中にひそかにしまっておくことはしません。もし、自分の心の中にひそかにしまっておくならば、御言葉をいただいた意味がなくなってしまうからです。キリストの御言葉を正しく聞いた人は、それに従って生活し、御言葉の輝きを自分の生活を通して表そうとします。また、いかに生きていくか迷っている人々にキリストの御言葉を伝えて、迷っている人が歩むべき道を見いだすことができるように配慮します。ですから、御言葉が正しく聞かれて、一度ある人の魂の中に入ったならば、それはおのずからその人の生活を輝かせ、またその人の周囲の人々にも光を投げかけて、暗い夜を照らす「ともし火」になるのであります。

17節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」とは、どういうことでしょうか?それは、キリストが弟子たちに語られた御言葉は、それがどんなに取るに足らないことであるように思われても、やがてその意味が明らかになり、人類の歴史を照らすようになるということであります。キリストの地上のご生涯自体が、十字架への歩みであり、この世の人々の目から見るならば取るに足らない卑しいものでもありました。しかし、やがて復活によって神の子であることが明らかになり、キリストの栄光は全世界に述べ伝えられるようになりました。使徒パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1:18)と記しました。十字架の言葉の力は、この世の人々の目から見るならば、隠され秘められた見えないものであります。しかし、それはキリストを信じる人によって、人間を罪から救う絶大な力があることが明らかにされるのであります。すなわち、キリストの御言葉には秘められた力があるのです。          (8月14日の説教より)