ルカによる福音書8:4-15
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」 (ルカ8:10)
キリストは、話をわかりやすくするためではなく、むしろ選ばれた人々にだけわかるようにするために、たとえを用いて話すのだとおっしゃいました。これは、常識的に考えますと、受け入れ難い発言です。常識的に考えれば、たとえというものは、誰でもわかるようにするために用いるものではないでしょうか。ところが、神の言葉を宣べ伝えるとはそういうものではない、とキリストは言っておられるのであります。
10節の二重のカギカッコの中の言葉は、旧約聖書のイザヤ書6章9節と10節からの引用です。旧約聖書のイザヤ書6章は、イザヤが預言者としての召命を受ける箇所です。すなわち、イザヤが神様の御言葉を人々に伝える使命を受け、遣わされる場面が記されています。その場面で、神様はイザヤを人々のもとに遣わすにあたって、次のようにおっしゃいます。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」これは、預言者の使命の重大さをひしひしと伝える重い言葉です。それによれば、預言者が神様の御言葉を伝えるのは、人々を納得させるためではなく、逆に人々を反発させて心をかたくなにするためだ、というのであります。
これも今日の常識では理解しがたいことでしょう。今日の常識では、聞き手が中心におり、語り手は聞き手にできる限りわかりやすく話をする義務があると考えられているのではないでしょうか。しかし、聖書の考え方は、あくまで神様中心です。神様のご意思が預言者を通して人々に告げられるのです。それゆえ、預言者は自分が伝えるメッセージが、人々に受け入れられないことを承知であえて語らなければならないということがあります。罪の世界に聖なる神様の意思を伝えるということは、このように大変なことなのです。キリストは、イザヤ書の御言葉を引用なさって、たとえを用いるのは「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためであるとおっしゃいました。すなわち、あくまでも神様のご意思を示すためにたとえを用いるのであって、人々にわかりやすくするためにたとえを用いるのではないということであります。
(8月7日の説教より)