コリントの信徒への手紙二11:4-6
「たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。」
(二コリント11:6)
パウロの話し方が必ずしも上手でなかったことは、この手紙の10章10節にある「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」というパウロへの批判の言葉からもわかります。そして、パウロはここ6節で「話し振りは素人でも」と言っていますから、自分の話し方が必ずしも上手でないことをある程度認めていたのでしょう。
ところが、キリストに関する知識については、「知識はそうではない」と言って、知識は素人ではなく、いわばプロフェッショナルであることを主張しています。もしかすると、パウロの権威を否定する偽物の伝道者たちは、パウロのキリストに関する知識をも否定していたのかもしれません。5節の「あの大使徒たち」というのが、主の兄弟ヤコブと十二使徒のペトロとヨハネのことであるとすれば、これらの人たちはイエス・キリストが地上で生きておられたときにキリストと共に生活しました。ですから、これら三人の人はキリストのことを当然よく知っていたに違いありません。ところが、パウロは、イエス・キリストが地上で生きておられたときに共に生活していたのではありません。パウロは、キリストが地上で生きておられたときには、キリストの弟子ではなくユダヤ教の教師でした。それだけでなく、パウロはクリスチャンを迫害していた人で、クリスチャンを迫害するためにダマスコの町へ行く途中で、復活して天におられるキリストに出会って、キリストの声を聞いたのでした。キリストと共に過ごした時間という点では、パウロは主の兄弟ヤコブやペトロやヨハネよりもずっと短いということになります。そうであれば、キリストを知る知識もずっと少ないと思われてもしかたないのではないでしょうか。
ところが、実際はそうではありません!パウロはほかの使徒たちのだれにも負けないくらい、イエス・キリストのことをよく知っていました。そして、キリストの福音とは何か、ということもよく知っていました。なぜなら、パウロはほかの使徒たちのだれよりも、「十字架につけられたキリスト」のことをよく知っていたからです(一コリント2:2参照)。つまり、パウロは、イエス・キリストとは人類の救いのために十字架についてくださった方だ、ということをだれよりもよく知っていたのです。そして、十字架につけられたキリストこそが人類を罪から救うということを、パウロは「隠されていた、神秘としての神の知恵」(同2:7)であると述べています。パウロは、イエス・キリストが地上におられたときに共に生活したことはなくとも、天におられるキリストと聖霊によって親しい交わりをもっていました。そして、人類の救いのために十字架についてくださったキリストと、十字架につけられたキリストによって救われるという「神秘としての神の知恵」を、誰よりもよく知っていました。 (7月17日の説教より)