コリントの信徒への手紙二10:7-11
あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
(二コリント10:8)
このパウロの言い方は、明らかに旧約聖書のエレミヤ書の言葉が元になっています。預言者エレミヤは、紀元前の7世紀の終わりから6世紀の初めにかけて、ユダ王国とエルサレムの都に対する神様の裁きを告げた人です。そして、神様はいったんエルサレムの都を裁いて破壊したのちに、ユダ王国の人々に罪を赦す「新しい契約」を与えてくださる、という救いの預言をした人でもあります。預言者として召されるとき、神様はエレミヤに次のようにお語りになりました。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」(エレミヤ1:9-10)「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」というのは、裁きを告げる神の言葉を語ることです。「建て、植える」というのは、救いを告げる神の言葉を語ることです。エレミヤは裁きと救いの両方を語る権威を神様から与えられました。そして、実際にバビロン帝国によってユダ王国は滅ぼされてエルサレムの都は破壊されるという神様の裁きと、その後に罪の赦しを得させる「新しい契約」が与えられるという神様の救いの両方を宣べ伝えたのでした。
パウロは、預言者エレミヤのことを念頭に置いて自分に与えられた権威を主張しているのですが、裁きと救いという二つのうち、自分に与えられた権威は救いのためである、ということを強調しています。「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威」と言っています。つまり、「私にはキリストから権威が授けられていますが、その権威の目的はあなたがたコリント教会の信徒たちを打ち倒すためではなく、造り上げるためなのです」と語りかけて、信徒たちが自発的にパウロの権威に従うように促しているのです。「打ち倒すためではなく、造り上げるため」というのは、パウロが宣べ伝えたキリストの福音がどのようなものであったかを考えれば、よくわかることです。先週もお話しいたしましたように、パウロが宣べ伝えたのは「十字架につけられたキリスト」でした。信じる人々に罪の赦しを与えて救うために、人々の代わりに十字架についてくださったキリストを宣べ伝えるということは、信じる人々の人格を造り上げ、信じる人々の共同体を造り上げるためでした。信じる人々を滅ぼすためではなかったのです。 (6月19日の説教より)