コリントの信徒への手紙一2:6-11
人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。 (一コリント2:11)
神という方は、神の霊の働きによらなければ理解することができないということを、パウロは人間の内面の問題を用いて説明しています。
11節の前半には「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか」とあります。人間は、全能の神様に比べれば、限界のある小さな存在にすぎません。それでも、一人の人の心の中には、外から見たのでは推し量ることのできない深みというのがあります。たとえば、ある場合には、その人の深みに素晴らしい宝のようなものが埋もれていることがあります。そして、あの平凡な人にどうしてこのような素晴らしいことができたのだろう、と周囲の人々を驚かすようなことがあります。反対に、ある場合には、深みに恐ろしい毒のようなものが隠されていることがあります。そして、あの善い人がどうしてこのような恐ろしいことをしたのだろう、と周囲の人々を恐怖に陥れるようなこともあります。有限で小さな存在である人間の心ですら、外から見たのでは決して知ることのできない深い思いがあります。その人の心の内側に入って、その人の心と一つにならなければ、わからない思いがあります。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか」とはそういうことです。
ましてや、全能で偉大な存在である神様の思いというものは、様々な現象を観察して人間の知恵によって外から推し量ろうとしても、決して理解することができないのです。11節の後半に「同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」とありますように、神様の深い御心は、ただ神様ご自身の霊だけが知っており、神様の霊すなわち聖霊の働きを受けることによって初めて理解することができるのであります。ですから、私たち人間が「十字架につけられたキリスト」という「神の深み」を理解するためには、神様の霊の働きを受ける以外には方法がないのであります。
(6月5日の説教より)