種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。       (二コリント9:10)

「種を蒔く人」とは、献金を献げる人のことです。そして、「種」は献金のことです。献金の元となり、日々の食べ物を買う元となる収入は、神様から与えられるものです。ですから、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方」というのは、言うまでもなく神様のことです。それでは、「あなたがたに種を与えて、それを増やし」とはどういうことでしょうか?これは、実際に麦の種を蒔く人のことを考えればわかることです。新約聖書の時代の農業で、小麦一粒を蒔いてその何倍の収穫を得ることができたかはわかりません。農業の技術が発達した現代と比べれば、おそらくずっと少なかったことでしょう。しかし、麦の種を蒔いて穂が実れば、自分たちが食べるパンにする分に加えて、来年の収穫のために蒔く種も与えられたでしょう。そして、麦が豊作であれば、来年の収穫のために蒔く種もみは、前の年よりも増えるに違いありません。それと同じように、ほかの人のためにした献金は、神様の働きによって実を結び、さらに多くほかの人のために献金をすることができるように、献金を献げた人に豊かな収穫をもたらしてくれるということです。そのことをパウロは、「あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」と述べています。

「あなたがたの慈しみが結ぶ実」という言葉は、文字どおりに翻訳しますと「あなたがたの義の実」となります。「義」というのは、正しいという意味の「義」です。2018年に日本聖書協会から出版された新しい翻訳の聖書は、そのように翻訳しています。先ほどもお話ししましたように、9節の「彼の慈しみ」も文字どおりには「彼の義」という意味でした。すると、どういうことになるでしょうか?パウロはこの手紙の5章21節で「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と述べています。すなわち、キリストの十字架による贖いを信じることによって、罪人が神様から「義」と認められるということです。そして、神様から「義」と認められた人々は神様に感謝するわざを行うようになります。コリント教会の信徒たちがエルサレム教会の貧しい信徒たちを支援するために献金するのは、そのような感謝のわざの一つです。コリント教会の信徒たちのわざは、神様の目から見るならば不完全なものです。しかし、キリストの十字架の贖いのゆえに罪人を「義」と認めてくださる神様は、コリント教会の信徒たちの不完全な感謝のわざも受け入れて、「義」のわざとして認めてくださいます。そして、神様は、コリント教会の信徒たちの「義」のわざが、さらに豊かな実を結ぶように配慮をしてくださいます。すなわち、コリント教会の信徒たちは、物質的にも霊的にも豊かにされて、さらにほかの人のために献金をすることができるようになるということです。

(5月15日の説教より)