コリントの信徒への手紙二9:6-8

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。          (二コリント9:6)

ここで、パウロは献金をすることを、種を蒔くことにたとえています。そして、「惜しんでわずかしか種を蒔かない者」とは、5節に「渋りながら」とありましたように、収入の中の神様にお献げするべき分をも自分の分にしたいと思いながら、仕方なく献金をする人のことです。また、「惜しまず豊かに蒔く人」とは、5節に「惜しまず差し出したもの」とありましたように、神様からいただいた祝福を、自分だけのものにしないでほかの人と分かち合う人ということです。5節の「惜しまず差し出したもの」と翻訳されているのが、祝福という意味のエウロギアというギリシア語であったのと同じように、6節の「惜しまず豊かに」や「豊かに」にも、同じ祝福という意味のエウロギアという言葉が使われています。すなわち、「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とは、「祝福をもって蒔く人は、刈り入れも祝福されるのです」という意味です。神様から与えられた祝福を、ほかの人にも分かち合うという気持ちで献げる人は、刈り入れる収穫も祝福されて豊かになる、ということです。

それでは、「刈り入れ」とは何のことでしょうか?これを知るためには、8節のところを読む必要があります。すなわち、8節には「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」とあります。まず、「いつもすべての点ですべてのものに十分で」とあります。つまり、神様が与えてくださる「刈り入れ」の収穫とは、人が生きるために必要なすべてのもののことです。物質的なものと霊的なもの、すなわちスピリチュアルなもののすべてです。神様から与えられた祝福を自分だけのものにしないで献げる人は、物質的にも霊的にも自分にとって十分なものをいただくことができるのです。しかし、それだけではありません。「あらゆる善い業に満ちあふれる」とあります。つまり、神様が与えてくださる「刈り入れ」の収穫とは、神様が喜ばれる善い行いをする力やそのために必要なものをも含んでいるのです。つまり、神様が喜ばれることのために献金をするという「種蒔き」が、さらに神様が喜ばれることをするための力や収入という「刈り入れ」の収穫を生むというよい循環があるということです。      (5月8日の説教より)