あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。 (二コリント8:14)
この箇所の意味を考えるときに、心に留めておかなければならないことがあります。それは、「いつか」という言葉はギリシア語の原典にはないということです。日本語の聖書を読みますと、私たちが今用いている新共同訳聖書も、2018年に日本聖書協会から出版された新しい翻訳の聖書も、「いつか」という言葉を補っています。また、福音派の教会で用いられている新改訳聖書の新しい版(新改訳2017)も「いずれ」という言葉を補って翻訳しています。ところが、英語の聖書では「いつか」に当たる言葉がない翻訳がいくつかあります。たとえば、English Standard Version という新しい翻訳は、英語を日本語に訳して言いますと、「あなたがたの現在の豊かさが彼らの欠乏を補うべきです。それは、彼らの豊かさがあなたがたの欠乏を補い、公正になるためです」(your abundance at the present time should supply their need, so that their abundance may supply your need, that there may be fairness)と翻訳しています(NRSVや NIV 2011も「いつか」を補わない)。
このように細かい翻訳の問題についてお話しいたしましたのは、「いつか」という言葉を補うか補わないかで、この箇所の意味が変わってくるからです。「いつか」という言葉を補って翻訳すると、「現在は、あなたがたコリント教会の信徒たちにゆとりがあるので、献金をして貧しいエルサレム教会の信徒たちを支援します。そして、将来いつか、エルサレム教会の信徒たちにゆとりができたときに、あなたがたコリント教会の信徒たちが貧しくなっていれば、エルサレム教会の信徒たちが献金をして支援してくれます。こうして釣り合いがとれ、平等になるのです。」という意味になります。そして、そのような意味に解釈する聖書の研究者もいます。(中略)これに対して、「エルサレム教会の信徒たちは、コリント教会の信徒たちから経済的な援助を受けた結果、彼らがもっている霊的、つまりスピリチュアルな祝福の豊かさを、助言をすることや模範を示すことや祈りをすることによってコリント教会の信徒たちに提供し続ける」という意味だと解釈する研究者もいます。確かに、今経済的な支援をすればいつか経済的に支援してもらえるという考え方は、この世の考え方とほぼ同じものです。そして、聖書の別の箇所でパウロが教えているのは、経済的な助け合いではなく、種類の違う豊かさ、つまり霊的な豊かさと物質的な豊かさを交換して助け合うということです。すなわち、パウロはローマの信徒への手紙15章の26節と27節で、エルサレム教会の貧しい信徒たちを支援するための献金について次のように書いています。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」 (3月20日の説教より)