コリントの信徒への手紙二8:1-4
彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。 (二コリント8:2)
「ない袖は振れない」ということわざもあるように、実際に貧しい人々が「人に惜しまず施す豊かさ」をもつことなど不可能ではないか、と思う方もあることでしょう。実は、この箇所には翻訳に関する問題があります。「人に惜しまず施す豊かさ」と翻訳されている箇所は、ギリシア語の原典を文字どおり翻訳すると「誠実さの豊かさ」となります。「誠実さ」というのは人格的な「誠実さ」のことです。つまり、私たちが読んでいる新共同訳の聖書で「人に惜しまず施す」と翻訳されているアプロテースというギリシア語の元の意味は「言葉や行いにおいて表された人格的な誠実さ」であるとギリシア語の辞典に書かれています。私たちが用いている新共同訳聖書は、その言葉に解釈を加えて「人に惜しまず施す豊かさ」と翻訳しているのです。しかし、この翻訳は、先ほども申し上げた「ない袖は振れない」ではないか、という疑問を生みます。2018年に日本聖書協会から発行された新しい翻訳の聖書は、この箇所を「喜びに満ち溢れ、極度の貧しさにもかかわらず、溢れるばかりに豊かな真心を示したのです」と翻訳しています。つまり、問題の箇所を「真心の豊かさ」と取り、「豊かな真心」と翻訳しているのです。原典の言葉の意味をよく伝える翻訳であると言うことができるでしょう。
これは、言葉の翻訳の問題だけではなく、聖書の教えをどう理解するかにかかわることでもあります。エルサレムの神殿でレプトン銅貨2枚を献げたやもめのことを思い起こしてください。レプトン銅貨2枚は金額からすればごくわずかです。しかし、キリストはこのやもめの献金について「だれよりもたくさん入れた」とおっしゃいました。そして、その理由を「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12:44)と説明されました。「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」という言い方には、少し誇張があるかもしれません。しかし、キリストがおっしゃろうとしたのは、この貧しいやもめの献金には神様への献身の姿勢すなわち「真心」が込められているということであったのです。ですから、レプトン銅貨2枚を献げたやもめの話でキリストがおっしゃろうとしたことと、今日の聖書の箇所でパウロが書いていることには、共通したものがあります。つまり、貧しさの中でも「真心」を込めた献金をすることができるということです。
(2月20日の説教より)