コリントの信徒への手紙二7:2-4
あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。 (二コリント7:3)
「だれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした」(2節)という自分の弁明の言葉が、信徒たちに対する非難の言葉と取られないようにするために、続く3節でパウロはさらに優しく語りかけています。「あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。」信徒たちの誤解を解こうとすることが、誤解していることを責めいていると取られないように配慮をしているのです。
「前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです」とはどういうことでしょうか?「前にも言ったように、あなたがたはわたしたちの心の中にいて」というのは、先ほどお読みした6章12節に記されていた「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れています」ということを指しているのでしょう。「わたしたちと生死を共にしているのです」というのは、まず、パウロが自分の命をかけてコリント教会の信徒たちを指導し配慮しているということを指しているのでしょう。コリント教会の信徒たちのために命を削り、場合によっては死ぬことさえもいとわないほど信徒たちのことを思っているということでしょう。
そして、それだけではなく、共にキリストの十字架の死と復活の命にあずかっているということを指しているのでしょう。私たちが読んでいる日本語の聖書では「生死を共にしているのです」と翻訳されていますが、2018年に日本聖書協会から発行された新しい翻訳の聖書では「共に死に、共に生きるのです」と翻訳されています。これはギリシア語の原典を文字どおりに翻訳した結果です。「共に死ぬ」の方が先になっているのは、パウロがキリストの十字架の死に共にあずかるということを考えているからなのでしょう。そして、その後に「共に生きる」と書かれているのは、キリストの復活の命に共にあずかるということを考えているのでしょう。パウロとコリント教会の信徒たちは、キリストの十字架と復活によって固く結ばれているということです。
(1月16日の説教より)