ルカによる福音書21:34-36

「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」             (ルカ21:36)

「人の子の前に立つ」とは、審判者であるイエス・キリストの前に立つことであります。キリストは、最後の審判に備えるために、一つの具体的な勧めをしておられます。審判者であるキリストの前に立って、義と認められ永遠の命を受けるために、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということです。「目を覚まして」とは肉体的に目を覚ましてということではなくて、霊的に目を覚ましているということです。それでは、「目を覚まして」というのは具体的にどういうことなのでしょうか?新約聖書のローマの信徒の手紙13章11節で、パウロは「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と告げた後、12節から14節で「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」と勧めています。つまり、霊的に目を覚ましているというのは、私たちの思いや行いが神様の目には全て明らかであるということをわきまえているということであります。反対に、霊的に眠っているというのは、自分の思いや行いが誰にも見られていないと思い、闇の行い、すなわち「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」にふけることであります。私たちの思いや行いが神様の目に全て明らかであることをわきまえていたならば、私たちは祈らずにはおれません。自分の罪を神様の前に告白せずにはおれません。また、自分の罪をイエス・キリストの十字架の贖罪のゆえに赦してくださいと真剣に祈らずにはおれません。さらに、自分が聖霊によって清められて生きることができるように祈らずにはおれません。クリスチャンの生き方とは、罪を告白し、罪からの救いを祈りつつ、最後の審判に備える生き方なのであります。

祈りの生活こそクリスチャンの生き方の基本です。人を実際の生活の中で罪の状態すなわち「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍く」(34節)なった状態から救い出すためには、祈りがなくてはならないのです。そして、本当に人間というものを心の深みから変えるものがあるとすれば、それは祈り以外にはありえないということです。人は自分の全てを神様の前に打ち明けることなしには、まことの平安を得ませんし、すべてをご存知である神様が最善のことをしてくださるという確信なしには、新しい生き方へと変わることもできないのであります(カルヴァン『キリスト教綱要』3・20・2)。

(11月28日の説教より)