そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 (ルカ21:27)
世の終わりの日に最後の審判をする方のことを「人の子」というのは、旧約聖書のダニエル書7章13節にさかのぼる言い方です。この旧約聖書の伝統に従って、キリストはご自身のことを「人の子」と呼び、終わりの日に審判者として再び来られるということを予告しておられます。そのことは、十字架につけられる前にユダヤ人の大祭司によってお前はメシアなのかと尋問を受けた際に、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)とお答えになったことにも表れています。
キリストが最後の審判をするために再び来られるということは、新約聖書を通して貫かれている信仰です。新約聖書の最後を締めくくるヨハネの黙示録の末尾に「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示22:20)というキリストの再臨を待ち望む言葉があることも、それを表しています。また、私たちが古代の教会から受け継いだ使徒信条という信仰告白の中でキリストが終わりの日に「そこ(つまり天)から来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白されていることにも表れています。ただし、27節の「雲に乗って来る」という表現は必ずしも文字どおりの意味に取る必要はないでしょう。「雲に乗って来る」というのは、キリストが天から神様の栄光を帯びて現れることを象徴的に表しているのでありましょう。イエス・キリストは、かつては私たちと同じような人間の姿でマリアとヨセフの子としてこの地上にお生まれになりました。しかし、十字架の贖罪の業を成し遂げ、復活して、天に昇られたのでありますから、今度来られるときは権威ある審判者として来られるのであります。
さて、28節にはこのような最後の出来事に対してどのような心構えで備えるべきかということが教えられています。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「このようなこと」というのは、25節と26節に記されている天体の異常と地上の異変のことであります。「身を起こして頭を上げなさい」とは、「希望をもちなさい」という意味です。「あなたがたの解放の時」というのは、この地上の様々な苦しみから完全に解放され、救いの完成する日のことであります。それは、ヨハネの黙示録の言葉によるならば「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示21: 4)ような永遠の救いの完成する日であります。使徒パウロによるならば、私たちの朽ちていく体がキリストと同じような朽ちることのない栄光の体に変えられる日であります(フィリピ3: 21)。アウグスティヌスの言葉を借りるならば、「そこにはもはやいかなる悪もなく、いかなる善も隠されず、すべてのものにあってすべてとなられる神の賛美のために時間が用いられる」ような至福の時であります(服部英次郎訳『神の国』22・30)。 (11月21日の説教より)