信頼し合う関係をめざして(2021年11月14日) 2021年11月10日 preached by 三好 明 and published by 志木北伝道所 コリントの信徒への手紙二6:11-13 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。 (二コリント6:12) パウロは、コリント教会の信徒たちは未だ心を開いているとは言えない状態だと言っています。この箇所は日本語で読んでもドキッとする言葉ですが、原典のギリシア語を直訳すると「あなたがたは私たちによってではなく、あなたがたの心によって狭くされています」というかなりキツイ言葉であることがわかります。先ほどもお話ししましたように、パウロとコリント教会の関係はよい方向に向かい始めていたのに、なぜパウロはこのようなキツイことを書いたのでしょうか? おそらく、パウロはコリント教会の問題の根っこが今でも抜かれないまま残っていると考えていたからでしょう。この後の16節には「神の神殿と偶像にどんな一致がありますか」という問いかけがあることからわかりますように、コリント教会の信徒たちの中には、未だにギリシア神話の偶像の神々を礼拝している信徒たちがいました。偶像の神々を礼拝することとみだらな行いをすることは、おそらく結びついていただろうと思われます。コリントにはギリシア神話の美と恋愛の女神であるアフロディーテをまつる神殿があり、その神殿には大勢の神殿娼婦たちがいました。コリントの信徒への手紙一の6章15節に「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない」とあることからわかりますように、コリント教会の信徒たちの中には、未だに娼婦のもとに通っている人たちがいました。そのような事情があったからこそ、かつてパウロがコリント教会を訪問して直接に「みだらな者」を指導して悔い改めさせようとしたときに、「みだらな者」本人だけでなくコリント教会の多くの信徒たちもパウロに反抗するという悲しむべき事態となったのでしょう。パウロの「みだらな者」に対する率直な指導は、その人を滅びの道から救って、ほかの信徒たちも罪を犯すことのないようにするために「心を開いて」したことでした。それに対するコリント教会の信徒たちの応答は、以前より良くなってはいるものの、未だに問題の根っこは教会の中に残っていて、いつ前のような態度に戻るかわからないとパウロは心配していたのでした。この手紙の12章21節で、パウロはこの手紙を書いた後でコリント教会を訪問した場合に、「以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか」と書いています。 (11月14日の説教より)