コリントの信徒への手紙二5:11-13

わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。

(二コリント5:13)

 

モーセの律法を強調してユダヤ教的な教えを語る人々は、12節に述べられているように「内面ではなく、外面を誇っている人々」であったのでしょう。そして、モーセの律法を守ることを強調するのですから、それらの人々が表面的に見ればパウロよりも立派に見えたというのは、不思議なことではありません。それらの人々と違って、ひたすらキリストの十字架と復活を宣べ伝えるパウロの熱心さは、「正気でない」と見えたことでしょう。実際、パウロは「正気でない」とみなされるほど、多くの苦しみを経験しながらキリストの福音を宣べ伝えてきました。この手紙の11章の24節と25節には「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました」とあります。このような過去をもつ人をコリント教会の信徒たちが「正気でない」「異常だ」と考えたとしても、それは無理のないことだと思います。

しかし、パウロはその異常とも言える熱心さを「神のためであった」と言います。そして、「正気であるなら、それはあなたがたのためです」と述べて、コリント教会の信徒たちに対しては、「正気」でかかわっていることを強調しているのです。パウロが「正気」であることは、コリント教会の信徒たちに対して、一貫した愛と厳しさをもってかかわってきたことから明らかです。たとえば、前にあった「みだらな者」の問題でも、2章の6節と7節で、その人が悔い改めたことを受け止めて「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」と冷静に述べています。

神様に対する「正気でない」ほどの熱心さと、人に対する「正気である」冷静さが両立するのはとても不思議なことです。しかし、キリストの愛に駆り立てられて生きている人には、一見矛盾するかのように思われるこれら二つのことが両立するのです。私たちの教会も、熱心さと冷静さをもって人々にキリストを信じるようにたゆまず説得していく教会でありたいものです。  (9月19日の説教より)