ルカによる福音書6:1-11

「人の子は安息日の主である。」         (ルカ6:5)

 

本日の箇所の二つの物語の教えに従いますと、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」というモーセの第四番目の戒めは、キリストとの交わりを第一とするという原則で解釈されねばならないということがわかります。したがって、クリスチャンは特定の日にだけ安息とするということではなく、毎日、全生涯にわたってキリストとの交わりをもつことによって神の前で安息し、終わりの日の安息を目指して生きていかねばならないのであります。宗教改革者のカルヴァンは、このことを「われわれが全生涯を通じて、おのがわざを止める永遠の安息を瞑想し続け、主がわれわれのうちに、その御霊によって働きたもう場所をあける」(『キリスト教綱要』2篇8章34、渡辺信夫訳)と教えています。

したがって、クリスチャンにとっての日曜日は、ユダヤ人の安息日とは違った意味を持っています。クリスチャンが日曜日に仕事を休んで神様に礼拝をささげるのは、日曜日が仕事を何もしてはならない日だからではありません。そうではなくて、神の民である私たちが御言葉と祈りの訓練を受け恵みにあずかるために、日曜日という一定の日が定められる必要があるからです。これはたとえて申しますと、大きな鍋からスープを飲もうとする人が、直接鍋に口をつけるのではなく、自分のスープ皿にスープを注いでもらって、そこから飲むのとよく似ています。また、お茶を飲もうとする人が、直接に急須に口をつけるのではなく、まず自分の湯飲みにお茶を注いでもらって飲むのと似ています。キリストと交わりをもって平安な安息の生活を送るためには、クリスチャンのためにある一定の日が御言葉と祈りの訓練を受けて恵みにあずかるために定められなければなりません。そこで、教会の秩序としてキリストの復活の日、すなわち一週間の初めの日である日曜日に礼拝を守ることが定められているのです。

ユダヤ教の安息日が「〜しない」という否定的な面を強く持っていたのに比べて、キリスト教の「主の日」は「礼拝をささげる」「御言葉を聴き、祈りをささげる」という肯定的な面を強くもっているのであります。    (7月18日の説教より)