コリントの信徒への手紙二5:9-10

なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

(二コリント5:10)

 

パウロはコリント教会の信徒たちに、終わりの日には地上で生きていたときにしたことが明らかにされて裁かれるのだから、気をつけなさい、と警告しているように聞こえます。確かに、パウロの言葉にはそのような警告のニュアンスも含まれているでしょう。しかし、パウロの述べようとしていることの中心は、悪い報いを受けることではなく善い報いを受けることなのです。少し前の4章14節で、パウロは「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と述べています。ここでは「わたしたち」とはパウロとその同労者たち、「あなたがた」とはコリント教会の信徒たちのことです。そして、「御前に立たせてくださる」というのは、終わりの日に永遠の命の体に復活させて、父なる神様とキリストの前に立たせてくださるということです。つまり、パウロたちもコリント教会の信徒たちも、終わりの日にはキリストと同じような永遠の命の体に復活させられて、父なる神様とキリストの前に立つことができる、という救いの希望が述べられているのです。

さらに4章17節で、パウロは「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と述べています。この場合の「わたしたち」とは、パウロとその同労者たちも、コリント教会の信徒たちも、キリストと信仰によって結ばれたすべての人たちも含んでいるのでしょう。そして、「永遠の栄光」とは、終わりの日に永遠の命の体を与えられるという栄光のことです。ここからも、パウロは悪い報いではなく、善い報いの方を考えていたということがわかります。そのことは、コリントの信徒への手紙一の4章5節で「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」の後に「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」とあるように、パウロが神様からの「おほめ」を強調していることからもわかります。終わりの日の裁きがあると言って脅して、コリント教会の信徒たちの行いを改めさせることがパウロの第一の意図ではないのです。             (7月11日の説教より)