コリントの信徒への手紙二5:6-8

 

それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。               (二コリント5:6-7)

「体を住みかとしているかぎり」というのは、この地上の体をもって生きている限りは、ということです。ですから、「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」というのは、地上の体をもって生きている間は、人はキリストから離れているという意味です。なぜでしょうか?それは、キリストは天におられ、人は地上で生きているからです。また、キリストはすでに永遠の命の体をもっておられますが、人はやがて死ぬべき地上の体で生きているからです。地上の体で生きている人は、天におられるキリストを直接に見ることができません。しかし、信仰によって天におられるキリストを仰ぎ見ることができます。天において永遠の命の体をもっておられるキリストを仰ぎ見ることによって、終わりの日に与えられる「見えないもの」である永遠の命の体に目を注いで生きることができるのです。

ヘブライ人への手紙11章1節で「信仰とは、・・・見えない事実を確認すること」だと教えられているように、私たちは信仰によって「見えない事実」である永遠の命の体を確認することができるのです。また、ローマの信徒への手紙8章23節から25節で、パウロは次のように記しています。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

「体の贖われること」とは、キリストを信じる人が終わりの日に永遠の命の体を与えられることです。それは「見えるもの」ではありません。「目に見えないもの」です。キリストを信じる人は、その「目に見えないもの」をうめきながら待ち望みます。「目に見えないもの」である永遠の命の体を忍耐して待ち望むこと、それがキリスト教の信仰であり希望なのです。       (7月4日の説教より)