コリントの信徒への手紙二5:1-3

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

             (二コリント5:1)

この箇所の後半の部分は、英語の聖書を読むと、ギリシア語の原典のニュアンスがよくわかります。最近の英語の聖書(ESV)には“we have a building from God, a house not made with hands, eternal in the heavens.”とあります。すなわち、「私たちは神からの建物を持っています。手によって造られたのではない、天にある永遠の家です」という意味です。

ここで考えたいことが一つあります。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても」というのは、「私たちの地上の体が死んでも」ということです。そして、「神からの建物」というのは永遠の命の体のことです。ところが、永遠の命の体が与えられるのは、終わりの日の復活のときという将来のことです。すると、地上の体が死んだときに、永遠の命の体を「持っている」というのはどういうことだろうか?という疑問が湧いてきます。聖書の研究者たちはこの疑問に答えようとしてさまざまな解釈をしてきました。それらの中で最も適切と思われる解釈は、実際に永遠の命の体を与えられるのは終わりの日であるけれども、キリストと結ばれた人は、天において永遠の命の体の権利を「持っている」という解釈です。

そうすると、キリストと結ばれた人の魂は、地上の体が死んだ時点で「天にある永遠の家」に迎えられるということができます。すなわち、「天にある永遠の家」とは終わりの日の復活の体であるとともに、私たちの地上の体が死んだ後、魂が住むことのできる天の家をも意味していることになります。少し後の8節に「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」とあるのも、キリストと結ばれた人の魂は、地上の体が死んだときに、キリストがおられる天に住むことになるということを示しています。宗教改革者のカルヴァンは、これらの箇所に基づいて、地上の体が死んでも魂が生き続けるということを述べています(『キリスト教綱要』3篇25章6)。また、17世紀に作られたキリスト教の教えの要約であるウェストミンスター信仰告白も、これらの箇所に基づいて、キリストと結ばれた人の魂が「いと高き天に受け入れられる」ということを教えています(第32章1)。

(6月20日の説教より)