コリントの信徒への手紙二4:16-18
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
(二コリント4:16)
「外なる人」とは、人がこの地上で持っている体のことです。この地上の体は、どんな人でも年齢を加えるにつれて老化して衰えていきます。それだけでなく、キリストを証しして生きる人には、それに伴う苦しみがあります。誰かにキリストの恵みを伝えようとすると、伝える側の人はさまざまな苦しみを経験しなければなりません。あるときは、相手の人の無関心に苦しむこともあるでしょう。またあるときは、相手の人に面と向かって反抗されて悲しむこともあるでしょう。さらに別のときには、面と向かって反抗されなくても、陰口によって悩まされることもあるでしょう。そして、食欲がなくなり、眠れなくなり、寝込んでしまうことがあるかもしれません。キリストを証しすることにより、「外なる人」であるこの地上の体は弱り衰えていくのです。
しかし、「『内なる人』は日々新たにされていきます」とパウロは述べます。「内なる人」とは何でしょうか?それは、キリストの命によって私たちの魂の中に形作られていく新しい人格のことです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(二コリント5:17)とあるように、キリストと信仰によって結ばれた人は、その人格が新しく創造されていくのです。また、この手紙の3章18節には、キリストと信仰によって結ばれた人が聖霊の働きによって「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」いくということが教えられていました。人間の人格は神に背いて本来のあるべき形からゆがんでしまっていますが、キリストと信仰によって結ばれるならば、それがキリストと同じ形に造りかえられていくというのです。もちろん、そのためにはキリストとの聖霊による交わりが必要です。キリストとの聖霊による交わりがあるならば、私たちの体は弱り衰えても、魂の中でキリストと同じような新しい人格が日々育っていくのです。
「内なる人」が新たにされていくと、最終的にはどうなるのでしょうか?17節でパウロは「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と述べています。つまり、「内なる人」が新たにされていくと、最終的には「永遠の栄光」に至るということです。「永遠の栄光」とは何でしょうか?それは、終わりの日に永遠の命の体を与えられるという栄光のことです。
(6月13日の説教より)