テトスへの手紙3:1-7「聖霊によって新しくされる」

神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。    (テトス3:6)

 言うまでもなく、私たちの魂が聖霊を受けることができるのは、神様が私たちに聖霊を注いでくださるからです。ですから、私たちが古い生き方から新しい生き方へと変えられるのは、私たち自身の業ではなく、私たちに聖霊を注いでくださる神様の業なのです。父なる神様は人類に代わって十字架上で死んだ独り子キリストを復活させ、父なる神様の右の座、すなわち天の王座に着かせてくださいました。そして、天の王座に坐しておられる永遠の王であるキリストは、キリストを信じる神の子たちに最も尊い贈り物である聖霊を与えてくださるのです。聖霊は神の霊でありまたキリストの霊でありますから、聖霊を受けた人はキリストのように祈り、キリストのように考え、キリストのように行動するように変えられていきます。もちろん、私たち人間は聖霊を受けつつも、自分の中に残っている罪のために、普通は一度にまったく新しい生き方に変えられるということはありません。しかし、衣類のしつこい汚れも時間をかけてよく洗うことで次第にきれいになるように、私たちの罪も日ごとに聖霊によって洗われることによって、次第に清められていくのであります。

本日は、ペンテコステすなわち聖霊降臨日の礼拝です。約2000年前に、エルサレムでキリストを信じる人たちが聖霊を受けて、新しい生き方を始めた日でした。新しい生き方とは、キリストを証しする生き方であり、キリスト教会の一員として生きる生き方でした。キリストが聖霊を注いでくださったのは、単に一人一人が立派な人間になるためではありません。それは、聖霊を注ぐことによって、この世界全体を新しくし、世界を終わりの日の完成の時へと導くためであったのです。預言者イザヤは神様が聖霊を注いで世界を完成と導かれることを次のように預言しました。「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ32:15-17)  (5月23日の説教より)