コリントの信徒への手紙二4:7-10
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 (二コリント4:8-9)
この確信は偉大な伝道者であったパウロだけのものではありません。キリストを信じてキリストと結ばれたすべての人に当てはまるのです。4章10節には「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」と記されています。この「わたしたち」とは、パウロやその同労者たちだけのことだけでなく、コリント教会の信徒たちやあらゆる時代のクリスチャンをも含んでいるのでしょう。
キリストを信じて生きる人生には苦しみが伴います。それは、十字架につけられたキリストを信じている以上、当然のことなのです。「まとっています」と翻訳されているペリフェローというギリシア語は「運ぶ」という意味の言葉です。キリストの十字架を信じる人は、キリストの十字架の苦しみの分け前を自分の体で担って持ち運ぶような人生を送ります。しかし、それは苦しむこと自体が目的ではありません。目的は「イエスの命がこの体に現れるため」です。苦しみの中で、聖霊の力によってキリストの復活の命が、信じる人の体に現れるのです。普通の人であれば、行き詰まって失望し、見捨てられたと思って滅びてしまうような状態になっても、「行き詰まらず」「失望せず」「見捨てられず」「滅ぼされない」で生きていくことができるのです。なぜなら、キリストの復活を信じる人の体には、キリストの復活の命が聖霊によって注がれているからです。
キリストの十字架の死と復活の命が、私たちの苦しみと希望となって現れます。今日、私たちはそれぞれの人生で苦しみを担って歩んでいます。なぜ私がこのような苦しみを担わねばならないのか、と思うこともあるでしょう。それは、それぞれの人生でキリストの復活の力が現れるためです。そのようにして、私たちは、キリストの十字架と復活を証しして生きることができるのです。
(5月16日の説教より)