コリントの信徒への手紙二4:5-6

わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。(二コリント4:5)

自分自身ではなく主であるイエス・キリストを宣べ伝える務めを、パウロは「僕」の務めであると言っています。すなわち、5節の後半には「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」とあります。この場合の「わたしたち自身」とは、パウロとその同労者であるテモテやテトスなどのことでしょう。そして、「あなたがた」とは、コリント教会の信徒たちのことです。パウロとコリント教会の信徒たちの関係がきわめて困難であったことは、この手紙の背景をお話したときに説明したとおりです。パウロはコリント教会の信徒たちを指導しようとしてコリントに行き、逆に反抗されて悲しみのうちにエフェソに戻ったことがありました。そして、その後、涙をもって信徒たちに悔い改めを求める手紙を書きました。幸いなことに、その手紙を読んで信徒たちの多くは悔い改めました。しかし、まだまだコリント教会は不安定な状態でした。そのような不安定な状態にあるコリント教会の信徒たちに対して、自分たちは「あなたがたに仕える僕」などと書くと、再び信徒たちが高ぶったり反抗したりして混乱が起こるのではないでしょうか。なぜパウロはあえて自分たちは「あなたがたに仕える僕」であると書いたのでしょうか。
この箇所を丁寧に読むと、パウロは自分たちとコリント教会の信徒たちとの関係だけを考えて「あなたがたに仕える僕」と言っているのではないことに気づきます。「イエスのためにあなたがたに仕える僕」であると言っているのです。すなわち、イエス・キリストに仕える僕であるからこそ、あなたがたに仕える僕でもあるのだ、ということです。5節の前半でパウロは「主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」と言っています。パウロは、自分の主であるイエス・キリストから、イエス・キリストを宣べ伝えるという務めを授かっている僕です。そして、コリント教会の信徒たちは、キリストを宣べ伝えるように命じられた相手です。主であるキリストによってコリント教会の信徒たちのところに遣わされているからこそ、パウロはコリント教会の信徒たちの僕となってキリストを宣べ伝えるのです。しかし、それはコリント教会の信徒たちがパウロの主であるということではありません。主であるのはキリストのみです。そのキリストの僕であるからこそ、パウロはコリント教会の信徒たちに対しても僕としてキリストを宣べ伝えているのです。             (5月9日の説教より)