ルカによる福音書23:50-56a
「葬られたキリスト」
さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
(ルカ23:50-51)
アリマタヤのヨセフはキリストの十二弟子ではありませんでした。また、身分から言えば、キリストに死刑を宣告した最高法院の議員の一人でした。ところが、アリマタヤのヨセフは他の議員たちとは違った意見をもっていました。50節と51節によりますと、この人は「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」と記されています。ですから、最高法院がイエス・キリストの有罪と死刑を決定したときに、アリマタヤのヨセフはそれに同意していなかったのであります。
キリストの処刑に同意しなかったということは、それ自体が大変勇気ある行動です。他のユダヤ人の権力者たちとは信仰のあり方が異なっていたのだろうと想像されます。51節の後半にはこの人が「神の国を待ち望んでいた」と記されています。他の議員たちの関心の中心は自分たちの権力を保持することでした。しかし、アリマタヤのヨセフの関心の中心は神の国の実現でした。彼は、今という時代の人々の罪を認識しつつ、やがて神様が完全に裁きと救いを行って、神様のご支配を完成してくださる日が来るのを待ち望んでいました。そして、イエス・キリストのご人格と御業の中に神の国の実現を見出していたのに違いありません。ですから、アリマタヤのヨセフは真のメシアとしてイエス・キリストを受け入れていたに違いありません。ヨハネによる福音書19章38節によりますと、アリマタヤのヨセフは「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。このことは、彼が勇気ある人であっただけでなく、同時に弱さをももっていたことを明らかにしています。しかし、マルコによる福音書15章43節によりますと、彼が「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」とありますので、アリマタヤのヨセフは、信仰に基づいてキリストを丁重に葬ることこそ自分に与えられた務めであると考えて、勇気を出して総督ピラトのもとに行ったのでありましょう。
(3月28日の説教より)