二コリント3:7-11「人を義とする務め」

人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
(二コリント3:9)

パウロは「旧い契約」であるモーセの律法を伝える務めを「人を罪に定める務め」と言い換え、「新しい契約」であるキリストの福音を宣べ伝える務めを「人を義とする務め」と言い換えています。キリストの福音を宣べ伝える務めが「人を義とする務め」であることは、このコリントの信徒への手紙二の5章19節から21節にかけて次のように記されていることからわかります。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことな く、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」神様は独り子キリストを「わたしたちのために罪となさいました。」そして、それによって罪ある私たちが「神の義を得ることができ」、神様と和解することができるようにしてくださいました。ですから、この和解の福音を宣べ伝える使者の務めは「人を義とする務め」なのです。そして、モーセの律法を伝える務め以上に「栄光に満ちあふれて」いるのです。
パウロは、モーセの律法を伝える務めに栄光がないとは言っていません。10節にありますように、キリストの福音を宣べ伝える務めのもっている「はるかに優れた栄光のために」、モーセの律法を伝える務めは「栄光が失われています」と述べているのです。その理由は、11節にありますよにように「なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。」「永続するもの」とは、言うまでもなくキリストの福音を宣べ伝える務めのことです。そして、「消え去るべきもの」とはモーセの律法を伝える務めのことです。たとえて言えば、月は太陽が出ていない夜の空では輝いていますが、太陽が出てその輝きが地上を照らせば、もはや月の輝きは消えてしまうようなものです。         (3月21日の説教より)