二コリント2:17「神の言葉を売り物にしない」

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。    (二コリント2:17)

コリントの教会には「神の言葉を水で薄めて売るようなこと」をしていた人々が多くいたようです。その人々は他の教会の推薦状をもってコリントの教会にやって来て、パウロのようなキリストに遣わされた使徒を装いながら、実際は経済的な利益を得るために神の言葉を水で薄めるようにして語っていたらしいのです(二コリント3:1、11:4参照)。そこで、パウロは自分たちがキリストの福音を語る姿勢を「誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」と説明しています。「誠実に」とは、経済的な利益つまりお金目当てではなく、キリストの福音を宣べ伝えて人々を救いへと導くという純粋な動機によってということでしょう。「神に属する者として」とは、神様から遣わされた者としてということでしょう。この手紙の5章18節でパウロは「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」と述べており、また20節では「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と記しています。人間から遣わされたのではなく神様から遣わされた者として、ということです。「神の御前で」とは、自分の語ることをすべて神様が聞いておられるということを意識してということでしょう。人々に受け入れられることを意識するのではなく、神様に喜んでいただくことを意識して語るということです。なぜなら、終わりの日の最後の審判のときに、私たちはみな神様の裁きの座の前に立たねばならない、ということをパウロは知っていたからです(二コリント5:10)。「キリストに結ばれて」とは、信仰によってキリストと結ばれてという意味、キリストの体である教会の一員としてという意味、キリストの聖霊の教えを受けてという意味、キリストの名によってという意味など、いろいろな意味を含んでいるのでしょう。

本日の聖書の箇所は、教会で説教を語る人の姿勢と説教を聞く人の姿勢を教えてくれます。語る人は神の言葉を薄めることなく純粋に語らねばなりません。また、聞く人は自分にとって都合のよいことだけを聞こうとしてはなりません。            (2月28日の説教より)