ルカ3:15-17「洗礼者ヨハネの信仰」
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
(ルカ3:16)
これは、洗礼者ヨハネが罪の赦しのしるしとして水で洗礼を授けたこととは対照的に、きたるべき救い主は「聖霊と火」で洗礼を授ける方であるということです。すなわち、洗礼者ヨハネときたるべき救い主の働きの最も大きな違いは、救い主には「聖霊と火」によって、悔い改めた人々を内面から清めていく力があるという点でした。このことが最もよく表れておりますのが、ペンテコステの日にキリストを信じた人たちに聖霊が降り、彼らが内面から造り変えられて、福音を宣べ伝えるために献身するようになったという出来事です。また、使徒言行録の19章1節から6節には、次のような大変興味深い記事が記されています。それは、使徒パウロがエフェソで神様を信じる人々に出会ったときのことです。これらの人々は神様を信じていながら、聖霊があるかどうかすら聞いたことがありませんでした。そこで、パウロが「どんな洗礼を受けたのですか」と尋ねますと、彼らは「ヨハネの洗礼です」と答えました。そこで、パウロは「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と説明し、人々にイエス・キリストの名によって洗礼を授けました。すると驚いたことに、それまで聖霊があるかどうかすら聞いたことのなかった人々に聖霊が降り、異言や預言を語り出したというのです。この伝道の記録を読むと、イエス・キリストの名による洗礼には、洗礼者ヨハネの洗礼にはなかった大きな新しい力があるということがわかります。
洗礼者ヨハネは、悔い改めた人々に洗礼を授けました。ところで、悔い改めたときの心の状態は長く続くものでしょうか?自分勝手な生き方を止めて神様に従う生活をしますと人間の側で決意したとしても、様々な試練や誘惑によってその決意は揺らぎやすいものであります。ですから、悔い改めたときの心を維持していくことは決して容易なことではありません。ましてや、悔い改めをさらに深めていくということは、人間の決意だけでは至難の業です。ですから、ヨハネの洗礼だけ受けて信仰生活をしていた人々が、パウロの目から見て信仰者としては十分でなかったとしても、それは不思議ではありません。悔い改めとは、一度限りのことではなく、日ごとに深められるべきことなのであります。言い換えれば、日ごとに悔い改めていくことが必要なのです。そして、日ごとに私たちを悔い改めに導いてくださるのが神様の聖霊なのです。(1月24日の説教より)