ルカ3:10-14「洗礼者ヨハネの倫理」
「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」 (ルカ3:11)
この教えは誰にでも実行できる現実的な面と、本当の信仰がないと実行できない革新的な面との二つの面があります。まず、現実的な面とは何かと言いますと、一枚の着物しか持っていない人や一人分の食料しか持っていない人に、自分の分をゼロにして何も持っていない人にあげなさいということが命じられているのではないということです。そうではなくて、二枚の着物や二人分の食料を持っている人に、何も持っていない人に分け与えることが命じられているということです。キリスト教的な隣人愛についての話では、自分のものをすべて人に与えて自分はゼロになる、というような面が強調されることがあります。たとえば、船が沈んだときに自分の救命胴衣を他の人にあげて死んだ人の話のような場合です。確かに、それはキリスト教の隣人愛の真髄と言えるでしょう。しかし、そればかりが強調されると、日常生活の中で隣人愛を実行するのが困難になります。洗礼者ヨハネが群衆に教えた隣人愛の原則は、二枚の下着のうちの予備の一枚を、一枚も持っていない人にあげなさいという、実行しようと思えば実行できるものだったのです。
ところが、洗礼者ヨハネが教えたことは、本当の信仰がなければ実行できないような革新的な面ももっています。なぜならば、それは自分が予備として持っているものを無償で分け与えるということを教えているからです。無償で分け与えるということは、決して容易なことではありません。たとえそれが予備として持っているものであっても、何かの見返りなしには手放したくないのが普通の人の感情です。それを無償で手放すというのは、非常に高度な自己犠牲的な行いであります。さらに、それは自分が予備として持っているものを失うということを意味しています。「下着を二枚持っている者」が「一枚も持たない者」に分けてやると、当然自分の分は一枚だけになります。予備を持つことを放棄するのは、本当の信仰がなければできないことです。なぜなら、必要な時はまた神様が与えてくださるという信頼がなければ、予備を放棄することはできないからです。下着を三枚か四枚持っていて、そのうちの一枚を何も持っていない人にあげるのであっても、ためらう人はいるでしょう。また、食料を三人分か四人分持っていて、そのうちの一人分を何も持っていない人にあげるのであっても、惜しいという気持ちが働くことでしょう。そうすると、二枚のうちの一枚、二人分のうちの一人分をあげて、自分も一枚きり一人分きりになってしまうのは、もっと難しいでしょう。これは、本当の信仰なしにはできないことなのです。(1月17日の説教より)