ルカ15:11-24「罪人を赦す神の愛」
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」 (ルカ15:24)
ルカによる福音書15章のいわゆる放蕩息子のたとえ話は、何の解説を加えなくても、読む人の魂に訴える何かをもっています。それは、大なり小なり人間の魂というものが、帰るべき場所を求めてさまよっているからでありましょう。この物語は、私たち人間に父なる神様のもとに帰ることを教えています。そして、放蕩息子を赦して受け入れる父親の姿は、天にいます父なる神様が赦しをもって罪人である私たちを受け入れてくださることを表しています。ところが、この物語をお一人お一人の生活に当てはめて考えるということは、意外と難しい面があります。なぜかと申しますと、この物語は放蕩息子のように特別に悪いことをしていた人が悔い改める場合のことであって、自分には当てはまらないというように受け取られる恐れがあるからです。この話は、果たして特別に悪い行いをしていた人だけに当てはまる話なのでしょうか?そうではありません。人間の魂というものは、例外なくこの放蕩息子のようなものだと理解すべきなのであります。
教会では礼拝の中で「主の祈り」を唱えます。ご存知のように、主の祈りは「天にましますわれらの父よ」という呼びかけで始まっています。宗教改革をしたカルヴァンという人は、この「主の祈り」を祈るときに、本日の聖書の箇所のいわゆる放蕩息子のたとえ話を思い出すようにと勧めています。つまり、私たちは神様の前に祈りをささげるときに、自分もこの放蕩息子のようなものであり、ただ父なる神様の無条件の愛のゆえに、赦されて神の子として受け入れられるのだ、ということを信じて祈りをささげなさいということです。そして、罪人を赦す父なる神様の愛は、イエス・キリストの十字架によって表されています。新約聖書のヨハネの手紙一4章10節は次のように教えています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」クリスマスとは、放蕩息子のような私たち人間が、父なる神様から赦しを受けることができるように、独り子イエス・キリストを贖罪のために遣わしてこの世に生まれさせてくださった、ということなのです。
(12月20日の説教より)