コリントの信徒への手紙二1:23-2:2

「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」         (二コリント1:23)

この文は、読み方によっては「こんなことを書いていいのですか?」という疑問が生じるところです。モーセの十戒の第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と教えています。これは、神の名によってみだりに誓いをしてはならない、という意味があります。また、キリストもマタイによる福音書の5章34節で「一切誓いを立ててはならない」と教えておられます。パウロは自分の正当性を主張しようとして、本来はしてはならない誓いをしているのでしょうか?
そうではないでしょう。かつてパウロは旧約聖書の律法を忠実に守るユダヤ教のファリサイ派に属していました。そのパウロが軽々しく十戒の教えを破るようなことをするはずはありません。また、キリストが「一切誓いを立ててはならない」と教えられたのは、人間には誓ったことを果たす力がないからです。パウロはこれから「〜をします」と言って誓いを立てているのではありません。かつてコリント教会を訪問しなかったのは「あなたがたへの思いやりから」であるということが真実であると誓っているのです。キリストの教えとは文脈が違います。このパウロの誓いは、伝統的に「神の御名によって敬虔に誓うこと」(ハイデルベルク信仰問答第101問)の例であるとされてきました。つまり、パウロは「もしこのことがもし真実でなかったら、神が私を罰してくださるように」という気持ちで誓っているのです。それくらい、コリント教会を訪問しなかったのは、信徒たちへの思いやりからであることを強調しているのです。
2章1節には「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました」とあります。すなわち、パウロは、再びコリント教会を訪問して「悲しみの訪問」のときと同じような事件の起きることを避けるために、「今はあえて会わない」という決断をしたのです。あえて会わないことによって、これ以上コリント教会の信徒たちとの間の感情的対立が深刻にならないように、配慮をしたのでした。(10月18日の説教より)