コリントの信徒への手紙二1:15-20

神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません。         (二コリント1:18)

パウロはまず自分たちの語った言葉が確かであるのは、「神は真実な方」であるからだ、と述べます。「真実」と翻訳されているピストスというギリシア語は、「信頼にあたいする」という意味です。そして、「あなたがたに向けたわたしたちの言葉」というのは、コリント訪問の予定を知らせる実際的な言葉と、キリストを宣べ伝える本質的な言葉の両方を含んでいるのでしょう。「『然り』であると同時に『否』」というのは、17節にもありましたように、イエスであると同時にノーであるような不確かな状態のことです。つまり、パウロは、コリント教会訪問の計画もコリントで宣べ伝えたキリストも確かなものです!と断言しているのです。
パウロは、コリント教会訪問の予定変更の問題が原因となって、自分たちの宣べ伝えたキリストの確かさが疑われるようなことが決してあってはならない、と考えていました。そこで、19節では「わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」と記しています。「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません」というのは、キリストが確かな方であるということです。キリストが確かな方であるということはいろいろな意味にとることができるでしょうが、ここでは旧約聖書で預言された神の救いの計画が、イエス・キリストにおいて確かに実現したという意味でしょう。神に逆らう人類の歴史の中に、神は信仰によって義とされ救われたアブラハムの子孫であるイスラエルという民族をおつくりになりました。そして、イスラエル民族の歴史の中で、将来、救い主であるキリストが来て信じる者を救ってくださるという、神の救いの計画を示してくださいました。その神の救いの計画は、キリストによって確かに実現したのです。つまり、キリストによって神の救いの計画は「然り」であることが明らかになったのでした。
(10月4日の説教より)