二コリント1:3-7「苦難の中の慰め」
わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。(二コリント1:6)
コリント教会の信徒たちの悔い改めを通して慰めを与えられたパウロは、その与えられた慰めをさらにコリント教会の信徒たちと分かち合おうとします。「わたしたち」とはパウロとその同労者のことで、「あなたがた」とはコリント教会の信徒たちのことです。パウロが悩みと苦しみの中で書いた手紙を読んで、コリント教会の信徒たちは悔い改めて、救いの道を歩むようになりました。ですから、パウロたちが「悩み苦しむとき」に、それはコリント教会の信徒たちの「慰めと救い」になるというのはわかります。しかし、それだけでなく、パウロたちが「慰められるとき」に、それがコリント教会の信徒たちの「慰め」になるとは、どういうことでしょうか?
コリント教会とパウロの間には緊張した困難な関係がありました。もしコリント教会の信徒たちの悔い改めが表面的なもので、今も引き続きパウロに悪意を抱いているとすれば、「あなたがたが悔い改めたのでわたしたちが慰めを受けた」という意味のことを聞いて、「お前の思いどおりにはならないからな!」と再び心をかたくなにするかもしれません。しかし、パウロはコリント教会の信徒たちの悔い改めが真実のものであると信頼をしていました。そして、心を開いて「わたしたちの慰めは、あなたがたの慰めになりますね」と呼びかけているのです。悔い改めて「みだらな者」に対して厳しい処置をしたことは、コリント教会が今後はコリントの町の世俗的な習慣や文化に対して一線を画して向き合うことを意味しています。そうすると、きっとキリストを信じない多くの人々から迫害を受けることになるでしょう。しかし、パウロを通して与えられた慰めによって、あなたがたは「わたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる」と励ましているのです。
(9月13日の説教より)