ルカによる福音書13:31-35
「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」 (ルカ14:5)
「自分の道を進む」というのは、メシアとしての働きをなし続け、最終的に十字架上の死にまで至るということであります。また、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」というのは、「エルサレムこそ預言者が苦難の日を遂げるのにふさわしい場所である」という意味であります。文字どおりに取ると、旧約聖書の預言者たちが皆エルサレムで死んだというようにも聞こえますが、そのような意味ではありません。
それでは、キリストはなぜ他の場所ではなく、エルサレムで十字架の死を遂げなければならないのでしょうか?
第一に、エルサレムは旧約聖書の時代にダビデ王によりイスラエル王国の首都が置かれた政治的中心であったからです。王国が南北に分裂してからは、紀元前587年の滅亡まで、ユダ王国の首都でありました。そして、新約聖書の時代では、ユダヤ人の最高法院という議会・裁判所があったのがエルサレムでした。このように、エルサレムは旧約聖書の時代も新約聖書の時代も、ユダヤ人の政治的中心であったのです。
第二に、エルサレムはソロモン王が神殿を建築したユダヤ人の宗教的中心であったからです。人々は年に三度、過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときにエルサレムで礼拝を献げねばなりませんでした。ソロモンの神殿はユダ王国滅亡の時に破壊されましたが、バビロン捕囚から帰った人々により神殿が再建され、さらに新約聖書の時代、紀元前9年に、ヘロデ大王によって再建されました。
第三に、エルサレムは旧約聖書の時代、預言者たちが政治的・宗教的指導者たちと向き合って、彼らと対決した場所であったからです。それらの預言者たちの中でも代表的な人はイザヤとエレミヤであります。特にエレミヤは、ユダ王国とエルサレムの都の滅亡を預言して、政治的・宗教的指導者たちと真っ向から対立し、多くの苦難を受けた人でありました。つまり、エルサレムは神の僕が苦難を受けた場所であるということです。 (8月9日の説教より)