この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。 (ルカ23:52-53)
ルカによる福音書のキリストの葬りの箇所を読んでみますと、キリストの葬りには二つの意味があることがわかります。一つは、キリストが十字架上で死んだということが公に確認されて、死者としてして葬られ、キリストの活動はこれで終わったと認識されたということです。生きている何人も越えることのできない生と死の境界を越えて、キリストは確かに死の世界に移されたのでありました。
そしてもう一つの意味は、キリストの死は単なる終わりではなく、やがて来る復活の日を目指して死の世界に入られたのだということであります。宗教改革者のカルヴァンは「かれは御自身が死に屈服することを許したもうたが、これは死の権力によって圧倒されるためではない。むしろ、われわれをおびやかし、すでに抑圧して、なぶりものにしていた死を投げ倒すためであった」(『キリスト教綱要』第2篇16章7節)と記しています。聖書もキリストが私たちと同じような肉体を持って生きそして死んだことの意味を「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブライ2:14-15)と教えています。
キリストはすべての人が経験しなければならない死という厳粛な現実を、私たちのために経験してくださったのでありました。そしてさらに、キリストが私たちのために死んでくださったということは、私たちが日ごとにキリストの死にあずかって、古い自分に死んでいくということをも意味しています。 (4月5日の説教より)