「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」 (ルカ12:11-12)
10節には「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」とあります。すなわち、キリストは、11節で信仰者に信仰を告白させるのは神の聖霊であるということを言う前に、聖霊なる神をあがめることがいかに大切かということを教えておられるのです。宗教改革者のカルヴァンは『キリスト教綱要』3篇3章21で、人間の悔い改めは聖霊による賜物であるということを述べています。すなわち、人間の力によって悔い改めがなされるのではなく、神の導きによって悔い改めへと導かれるということです。そして、すぐ後の22で、聖霊を汚す罪とは、聖霊が人間を悔い改めへと導こうとしておられるにもかかわらず聖霊に逆らうことだと論じています。「聖霊に対して罪を犯すものとは、神の真理の輝きに打たれて、無知の口実を主張することができないのに、しかも、はっきりした悪意をもってこれに抵抗し、ただ反抗のためにのみ反抗するもののことである。」(渡辺信夫訳)
毎日、聖霊の働きに従って悔い改めることこそ、信仰生活の基本であります。そして、そのような基本を実践している人は、人々の前で信仰を問われたときにも聖霊の働きによって正しく答えることができます。「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)悔い改めとは、古い自分に死にキリストの命によって新しく生かされることです。もし私たちが日々の悔い改めによって古い自分に死ぬということを実践しているならば、信仰を告白するか否かという重大な事態に際しても、古い自我の働きによってではなく、キリストの恵みをもたらす聖霊の働きによって対応することができるのです。
(12月29日の説教より)